投稿者「貴如意」のアーカイブ

選択の余地

人生、選択の連続。夕食のメニューという小さな選択から伴侶を選ぶという大きな選択まで色々ある。どのような選択をするかで、その人なりの人生が出来上がっていく。今度の選挙は選択の余地がたくさんある。新聞の調査で「もう決まっている」と書かれれば、しらけてしまうがせっかく与えられた選択権、しっかり行使しようと思う。

倒れた母に関する私のpressureは、母の選択権が私に移ってしまったことによるものではないだろうか。住居、衣服の生活の大切な部分を私が選び、管理している。しょうがない、と言ってしまえばそれまでだけれど、どこかで常に「これでいいのだろうか」という問いがある。選択できることは何と言っても自由の証。これからも一つ一つ悔いのない選択をしていきたい。

紅葉

紅葉もそろそろ終わり

 

 

また地震

夕方電話で話している時に又地震。最近朝になるとよく小刻みに揺れて、おかしいな、どこかの工事の振動かしら、と思っていたのだけれど。。。若い頃は、確か小さな地震が沢山あるとエネルギーが発散されて大きな地震は起きない、と習ったんだけれど。科学も万能ではない、としみじみ思う。

昭島駅から

昭島駅からの風景

外からはミサイル、中では地震。でも多くの日本人は「日常」に支えられている。「日常」を奪われた福島の避難民の方たちの心細さはどうだろう。始めは一生懸命寄付してきたが途中からこのお金はどこに行っているのだろう、という疑問が膨らみ、途中から支援をしている人たちに直接渡してきた。福島の人に有機的な農業を通じて職を持ってもらおう、という現実的なグループもあり、余程口ばかりの政治家より本質的な支援になっていると思う。

気をつけたいこと

12月に入り慌ただしくなってきた。豊橋で気功教室を助けて下さった方の喪中葉書が届いた。駅の階段から転げ落ちて打ち所が悪く、長く療養なさっていた。同じ頃、小学校以来の友達のお母様が地下鉄のエスカレーターの下りで倒れ、そのままやはり転げ落ち、頭に大怪我をし、重い後遺症が残ってしまった。いずれも降りている時で、私はこの話を聞いて恐くなり階段、特に駅では必ず手すりを何となく触りながら降りるようにしている。上がる時も真ん中は避けている。「転ばぬ先の杖、ならぬ手すり」ということだ。

夜のイチョウ

夜のイチョウ 哀悼を込めて

地べたであれば打つのが一回ですむけれど、階段だったら何度も打ちつけることになるので重症化してしまうのだろう。よく転んで寝たきりになったという話を聞く。階段だけでなく、転ぶということに気をつけなければいけない。できるだけ階段を一歩一歩、歩いて、足腰を日野原先生のように鍛えておこう。最晩年まで歩けるように。

お出かけの日

次男、三男の幼稚園時代のママ友(今は私の友達)と有楽町の三菱一号館美術館へシャルダン(18世紀のフランスで活躍)展を見に行った。日本では初めての個展でまとめて見ることができて、「静物画」はあまり面白くない、と思っていた固定観念を覆してくれた。特に果物の質感と陶器、水の入ったグラスの表現が見事。他、室内の人物像もシャルダンの人柄が出ているのだろうか。穏やかで温かい感じを受けた。「青騎士」のマルク、ルドン、セザンヌにまで影響を与えていたこともわかった。

有楽町

有楽町界隈

有楽町で勤めていたこともあり、なつかしかった。特に今日は雨もあがりからっとした良い天気で、まだ落ちない銀杏の木々も美しく、母のことなど良く話を聞いてくれる二人の友にも会えてhappyな一日でした。

全ては無常

落ち葉

今年は落ち葉になるのが遅かった

笹子トンネルの崩落事故。どうも点検の不備が原因の一つらしい。出来上がったものが老朽化することは、常に頭に入れておかなければいけない。3年位前上海を訪れた時、おもちゃ箱をひっくり返したような個性豊かなビルが沢山立ち並び、まだこれでもか、という程建設ラッシュだったので、何となく異国情緒を期待してた私はがっかりした、というか驚いた。と同時にこれらのビル群が一度に寿命を迎えた時ちゃんと保全するのだろうか、と少し恐ろしくなった。

日本では昔から、例えば鴨長明が、世の無常を説いている。時間と共に全ては変わっていくというこの思想。全てに当てはまる。西洋美術でも「時」は良く鎌をもった死神で表された。今度のこの事故は、まさに鎌をもった「時」という死神を連想させる。「時」を怖がるばかりでなく、恐ろしさを知った上で、「時」を味方につける手立てを考えなければいけないだろう。

又~したい

人生の折り返し地点をとっくに過ぎて、また去年と今年で人間の儚さを目の当たりにして、俄然やりたいこと、やらなければいけないと思うことはしておこう、という気分になっている。好奇心が強く、色々とやりっ放しになっているものが多い。登山とスキーもその一つ。スキーは私がしていた頃よりずっと板が短くなり、スピードはあまり出ず、回転は楽らしい。是非試してみたい。

縁起物

少し早いですが目出度い縁起物

山は大好き。勤めていたころ、ワンゲル部に入りよく山に行っていた。活動は私たちのよく行っている山が冬山になる前の11月3日が山行止め。「冬山は行かないの?」とある人に聞かれ、「まさか、そんな危ないこと、しませんよ。」と答えたら「あなた、スキーによく行くじゃない。スキーは冬山でやるものじゃないの?」となぜか怒られた。ごもっともです。スキーも山も、もう一度始めるchanceを狙っている。今はとても無理だけど。

今日の夕食

書くことに困ったら食事のことにしよう。毎日一番力を入れているものでもある。今日は息子二人も食べるということなので作りがいがあったけれど、長男には残してあったステーキを食べさせるため別献立になり、少々面倒くさかった。他の家族は餃子。餃子は冷凍だったが、始め冷凍のまま焼いてから水を入れ蓋をし、水がなくなったら、3分位蒸して最後に又油で炒めるとかりっとする。

付け合せはレタス、トマト、他ホワイトシチュー(鳥肉、人参、じゃがいも、玉ねぎ、キノコ二種類)ほうれん草のおひたし、里芋とイカの煮物。ちょっと重たいかな、と思ったのでシチューは薄目にして煮物は少なめにした。今これを書いていて社会人になって家を出た次男の言葉を思い出した。「中華なら中華、和食なら和食に統一してよ。」今思うになかなか鋭い子ではあった。鈍感な家族が残って良かった。(のかな?)

両国

ある駅の前。どこでしょう。

もう12月

ペンギンひたすらひたすら時間に追われた一年だった。といってもまだ一箇月あるけれど。色々なことが段々と早くなり、11月に入った途端、街にクリスマス・ツリーが出始め、御歳暮や年賀状、おせちのことまでどんどん考えなければいけない。追い詰められないと動かない私には、丁度いいのかもしれないけれど。

母が今日「何もすることがない。」と言ったような気がしてどきっとした。「何もできない」と言ったのかもしれない。脳の言語野がやられたので、人からの言葉の理解が難しい。でも母の言っていることは時々理解できる。何よりも話好きの母から言葉が奪われ時間を持て余している。娘の時間と足して二で割れるといいね。これからの母の時間が何とか楽しいものでありますように。

日本の岐路

仕事に関して、これまでさんざん甘い話に振り回されて実際危ない場面もあったけれど、すんでの所で引き返し難を逃れてきた。考えるに、肝心な所で依存心を持つと良い結果が得られない。今私の周りの人は信頼できる方ばかりで、安心してお願いした事をお任せできる。政治はどうだろう。安心して全てをお任せする政党を選ぶことは、今の状況では私にはとても難しい。

一階からの風景

一階からの今日の風景

今度の選挙で今後の日本が決まってしまう、ということは誰でもが思っていることだろう。何もかもが不安な世の中。どうしても自分と身内の保全を考えてしまうのは当然で必要なことだ。でも困難な状況にある人のことは忘れてはいけない。どうしてそういうことになってしまったのか。これからどうなるのか、現実から目を背けないで、でも過度な期待や依存心を持たないで、選挙に臨もうと思っている。

 

色々と補足

memento・mori (死をわすれるな)の概念の元に書いた絵にヴァイオリン(弦楽器)がでてくるということを書いたが、重複するモチーフにvanitas ( ヴァニタス) がある。これは「はかなさ」という意味のラテン語で、富や名声といったこの世の「はかなさ」を警告している。しかし「ヴァニタス」のモチーフを含む全ての絵が教訓を伝えるために描かれた、というわけでもなく、華やかな富の見せびらかしに対する言い訳的に懐中時計が置かれていることもある。(何かいじらしいね。)17世紀のオランダやフランドルでこのような静物画が盛んに描かれたので興味をもたれた方は調べてください。CPのWikipediaヴァニタスの項でコルネール・デ・ヘームの『ヴァニタス・楽器のある静物画』を見ることができる。

紅葉3

ヴェランダから見た景色

二つ目の補足。コンタクト・ヒーリングが終わった方は遠隔はもうしない、と書いたけれど、かと言って全く知らん顔するつもりもない。でも、もう自分の体のことはわかってくれているだろうから全てお任せ、というのはない、ということです。基本的に気功というのは自分の体を自分で管理する手段だから。勿論気功の良き理解者としてご縁が出来たので、何かあった時言って下さったら出来るだけのことはするつもりです。