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人との縁(まだ結婚しない子供達へ)

スピリチュアリズムを学んでいるが、その中に「波長の法則」というのがある。人は自分の心のあり方が、出会う人や出来事を決めている、という法則。熱愛して結婚しても、「こんなはずではなかった」と別れていくことがある。親に勧められたお見合いで、(今時そういうのは珍しいけれど)始めはそんなに好きでもなかったのに、ずっと連れ添う夫婦もいる。出会った時の波長が低くて同じような波長の人と結婚してしまっても、お互いに霊格、人格を高めていければそれは素晴らしいと思う。

しかし、どちらかだけが高くなってしまったら、どうしてもお互い、居心地の悪さというものが出てくる。今だからこそ、自分の心の状態に気をつけるが、若い時はそんなことは思いもしなかった。本当の意味で添い遂げるのは、とても難しい。女性が「お金のため、生活のため」我慢して一緒にいることも多々ある。

うちの近くの夕焼け空。

だから、出会った時の自分の波長を慎重に分析することが必要だが、例えば結婚に関しては「何故自分は結婚したいのか?」という動機も内観しておいた方がいい。というのも自分の経験から、夫婦が同じ目標を持ち、大事なところで同じ考えを持つと力が倍増するが、そうでないと非常にやりにくくなるからだ。

でも、まあ、概して男女の結びつきは相手をしっかり見ないで、自分の幻想の中で作り上げた相手に勝手に惚れ込む、ことから始まるのではないかな、という夢のない意地悪ばあさん的なことを言って締めくくります。でも、真剣に真面目に考えた結婚なら、それだけのことはあるでしょう、という希望的な観測も付け加えて。

アメリカからのお客様(2)

豊橋二日目の午後は、名古屋の徳川美術館に連れて行った。名古屋から周遊バスがあったけれど、金山から乗り換えて大曽根駅で降りた方が一時間近く早く着く計算になった。裏の日本的な小道を通って表に出ると、そこには満開の桜が!!!今日、豊橋の親戚のKさんが、「早咲きの河津桜」と教えてくださった。ああ、今回は桜には早すぎた、と思っていたので見せることができて、とても嬉しかった。何本も華麗に咲いていた。

去年撮った写真。雲の形に魅力を感じました。

特別展で享保、寛永のお雛様や有職雛のお雛様、みたことがないようなユニークなお雛様が並び、美術の先生をしているお嫁さんが、すごく興味を持ってくれたので、「お雛様」の歌から、これがぼんぼり、雌雛、雄雛、三人官女、五人囃子、ガードマン(?)と説明していったら、一番下の男の人達は何をしているのか?と聞かれ少し返事に困ってしまった。お盆を持っている人形は食べ物をserveする人、他の人はcleaninng(掃除)する人達かも、といっておいた。

彼女は「どんぐりころころ」を日本語で上手に歌ってくれた。日本の童謡が子供にいいと思ったみたいで、まだ他の歌も覚えたいようだ。こんなお母さんなら、Mちゃんもいい子に育つだろう。日本を気に入ってくれて結婚してから三度目の来日だけれど、かえって外国の方から日本のいい所に気づかされる。こういう文化的交流を色々なところで積み重ねていくのが、結局、平和への近道なのだろう。まさかアメリカ人の親戚を持つとは夢にも思わなかったが、もう世界の垣根が実際には大分取り払われているということだろう。今回はお嫁さんと沢山お話できて、距離が縮まるという収穫があった。

 

アメリカからのお客様(1)

アメリカから甥っ子家族が遊びにきた。私の姉の一人っ子で、お嫁さんはアメリカ人、子供は一才半の男の子一人。甥は両親が日本人なので、血は日本人だが、アメリカ生まれのアメリカ育ち。彼のお父さん、つまり私の姉の配偶者も一人っ子だったので、叔母は私しかいない。従兄弟も私の子供達だけなので、姉がアメリカから彼を連れてきたり、私の両親が子供達をアメリカに連れて行ったりして何となく会わせていた。

御殿場の「時のすみか」というリゾート地では、夜の噴水ショーや素晴らしい富士山を楽しんだ。ホテルの窓から大きな富士山全体を見ることができて、とても私も幸せだった。豊橋では残念ながら二日とも雨だったけれど、一日目は「のんほい豊橋自然動植物園」に二日目は「徳川美術館」に連れていった。動物園は正直、全く期待していなかったけれど、行って見ると広くて驚いた。雨でどうかなと思ったが、植物園、展望塔、北極圏の動物達、恐竜の実物大のレプリカが沢山置いてある自然史博物館と雨でも屋根のある所が色々あり、12時半過ぎに入って閉演の4時半までいても見たりない程だった。両親が豊橋出身で、小さい頃から豊橋に行っていたのに、私は初めて行った!生きていたら、何故連れて行ってくれなかったのか、と確実に文句を言ったと思う。

今まで大勢の方がお参りして下さいました。

二日目はアピタというスーパーで、たこ焼きを食べた。(揚げてなくて焼いただけの、中がとろっとした人気のもの)これは一才半のMちゃんがぱくぱくと四個も食べた。内訳は10個のうち、Mが4個、甥が3個プラスMの食べれないタコを四個分、奥さんは恐る恐る一つだけ、私は二個だけ。これは言ってみれば十時のおやつのようなものだけれど、こんなことを覚えている私はひょっとして浅ましい?のかしら。実はここのたこ焼き、好きなのです。

その後スーパーからすぐ近くのお墓へ、お参りに歩いて行った。いつも車で行くので方向ど音痴な私は、入り口から、こんなに歩いたかしら、ここで迷ってお墓がみつからなかったらアメリカ人と幼児を雨の中連れて笑い事ではすまない、とどきどきした。無事みつけました。きっと私よりご先祖様や両親の方が、ちゃんと来れるか心配したと思います。導いて下さって有難うございました。(To be continued)

 

 

 

納骨の話ー母の場合ー

この前も書いたけれど、1月6日に母が亡くなり、1月20日に伯母が亡くなった。そして母の49日の法要を2月25日、豊橋で行なった。この時は伯母のお葬式に参列したので、どうして骨壷がお墓に入らないか謎がとけていた。名古屋方面では、荼毘にふしたお骨を全部を骨壷に入れないで、大事な(と思われている)お骨を三つに分けて、それぞれ小さな骨壷に入れる。一つ一つは手のひらサイズ。この大きさだと、うちのお墓にも余裕で入る。

わかっていたので、今度は布にお骨を包んだ状態でお墓に入れようと始めから思っていた。ところが。。。今度はなんとその布がない。いきなりお骨が入っている状態。住職も慌てられて、「どなたか小さな風呂敷を持っていませんか?」と声をかけた。実は家を出る時、ハンカチが気になり、迷った末、小さめのを持ってきてしまったので、困った、と思った時、名古屋から来てくれていた従姉妹が「これでいいですか?」と花柄の綺麗な小さめの風呂敷を出してくださった。「それで大丈夫でしょう。」と住職も安堵の色を浮かべられ、丁度お骨も収まって、事なきを得た。風呂敷を下さった方も、「叔母さま、おしゃれだったから、白い布よりこちらの方が良かったのね。」と言ってくれた。

「風呂敷、帰ったら見つけてお返ししますね。」と言ったら、「あれは通販の物を頼んだ時、サービスでついてきたものだから、気にしないでね。」と気を遣って下さったので、では、法要の時に出したお菓子を美味しい!と言ってくれたので、それと、紅茶をセットにしてお返しとすることにした。

菜の花の咲く季節になりました。人がいなくなっても季節は巡ります。

東京に戻って、早速まず、紅茶専門店に行った。ぐるりと見ていると、そこに丁度、頂いたのと同じ大きさの和柄の風呂敷が!!!このお店で始めて見た。「えっ、何故ここにこんな物が置いてあるんですか?」と聞くと「そうなんです。季節限定で今だけです。」というお返事。あっ、母だ、母が「ちゃんとお返ししなさい。」と言ってる、そう確信した。それにしても紅茶と言うと、明らかに洋のもの。そこに和柄の風呂敷が置いてあるなんて誰が想像するだろう。最後まで母らしい演出の様な気がして、寂しいはずの49日が思い出深いものに変わった。

納骨の話ー父の場合ー

今回、両親を送ったことで始めてわかったことがあった。生生しいことが嫌いな方は、ここから先は読まないで頂きたい。何かというと、東京と豊橋、多分名古屋も豊橋と一緒なのだが、骨壷の大きさが全く違うということだ。父の時にどのくらいの大きさを希望するか聞かれて、「普通はどのくらいですか?」と聞いたら、八寸、ということだった。お寺に問い合わせると、いや~、それは大きい、六寸でいいでしょうと言われ、その大きさにした。一番小さなサイズだった。

ところが、納骨の時に、それでも骨壷が大きすぎてお墓にどうやっても入らない。六寸でいいでしょう、とおっしゃったお坊さんは困ってしまって、「ではお骨を包んでいた布ごと入れればいいでしょう。早く土に帰る。骨壷は私が持って帰ります。」ということになり、無事納骨を済ませた。

豊橋市の市が管理している墓地は、管理料が無料でとてもあり難い。うちはかなり広い土地にお墓が五つ建っていた。お墓参りの時、一基にお花を入れる所が二つずつあるのでかなりのお花を用意しなければならず、お花代だけで三千円軽く超えてしまう。両親は「私達のために」なるべくお墓をまとめる、と言ってくれていた。

仏壇の前の様子。華やかにしている。

ある時、とても大事なことがあるから、なるべく皆で豊橋に来るように言われた。子供は一人しか行けなかったけれど、とにかく行くと、お墓に連れて行かれた。見ると、五基のご先祖様の隣にいやに立派な六つ目のお墓が建っていて、私は本当にびっくりしてしまった。「この新しいのだけにして、後はまとめるの?」と聞くと「そんな罰当たりなことはしない。このお墓に私達以降の人は、全部入ることにした。」と勝手に決めている。え~っ、話が全然違うと言うと、「だから大きなお墓にした。」という。

それでも一体幾つ骨壷が並べられるのだろう、と危惧したけれど、布で包むだけだったらかなり入る訳よね。そのつもりだったのか、聞きそびれたのは残念だった。冒頭でなまなましい話と書いたけれど、納骨の話だから、カサカサした話でした。訂正します。

感謝!!!

両親の最晩年、力になって下さったのは、両親の一番近くいた人達でした。父の場合、昨年の二月まで練馬の家で一人で暮らしたので、ケアマネさん、ヘルパーさん、介護施設のトップの方、リハビリで知り合った面倒見のいい男性、お弁当を毎日届けながら様子を見てくださったワタミの方。実家まではここから車でも電車でも一時間半、買い物したり、環八が混んでいると二時間かかるので、何度家に電話かけても出ない時や、どうも調子の悪そうな時はお願いして、よく見に行って頂きました。

母は国立で三年以上お世話になった介護施設、損保ラヴィーレで、多分近年になく幸せな生活を送ったと思います。三度三度のおいしい食事、お気に入りの男性介護士、母を慕ってくれた女性の介護士、しっかりと組織を管理し、母を見守り、いつも病院に付き添って励ましてくれて、本当に頼りにさせて頂いた女性の施設長。そして二人共、最後は武蔵小金井の桜町病院で温かい先生と看護士さん達にお世話していただいて安らかに旅立ちました。

勿論、親戚や友達もとても心配してくれて、理事長や病院長の身でありながら豊橋からお見舞いに来てくれた従姉妹や従兄弟、二人入院して(最初は別の病院だったので)あっちとこっちで困っていたら、「今日は私が伯母ちゃまの所に行くから」と良く申し出てくれて助けてくれた従姉妹、何を優先しても子供も連れて見舞いに来てくれたお嫁さん、母の延命を一生懸命祈ってくれた叔母、わざわざクラスが終わってからお見舞いしてくれた友達、数え上げれば感謝する方達はきりがありません。大勢のお見舞いの方達を見て、こんなに大切に思ってくれているんだと本当に嬉しくなりました。

見慣れた立川の街。「いつの日かこの世に別れるその日、遥かに見下ろす立川の赤い橋」

今回特に感じたのは、血が繫がっていなくて家族でも親戚でもなく、あくまで仕事の中でのお付き合いであるはずなのですが、毎日、施設ではすぐ側にいてやさしくして下さったり、病院ではもう何も病人にすることがなくなっても、温かい眼差しを送ってくださることが、どんなに病人や家族にとって力になり励まされ癒されるか、ということでした。

正直、冷たいな感じ悪いな、と思う他の病院の階もありました。そんな時は、家にいてもいつも心配でした。二人の最晩年、周りにいた方達が心ある方達で本当に幸せでした。母の四十九日も済ませ、思い返せば私だけではどうにもならなかった、と思うことばかりです。

この場を借りて、心からお礼申し上げます。明日、三月からは気持ち新たに、また、気功師とピアノ、スピリチュアリズムの勉強に全力を注いでいきます。

 

母のこと -不思議な夢ー

母が倒れたのは2012年、3月31日。その直前の2012年二月のこと。両親をどこかに連れていこうかという話になり、ふと、母が「一度は海ホタルに行きたい。」と言っていたのを思い出した。丁度次男が就職して富津にいたこともあり、他の所を考えていたのだけれど「いつ、行けなくなるかもしれないから。」と言って海ほたるを通って次男の所に寄り、御宿に行くコースを選んだ。これが母を連れて行った最後の旅行になった。今考えると、海ほたるに連れていっておいて良かったと思う。

母が倒れてから暫くして、奇妙な夢を見た。子引き出しが三つついた高さ25cmくらいの小物入れがある。その一番上の引き出しが開いている。次の引き出しも開いている。ところが一番下の引き出しは閉まったまま、という夢である。夢の中で直感的にああ、母は二回程入院して、二回は良くなるけれど三回目に入院したら、それが最後になるな、と思った。

以前撮った不思議な写真。今見ると、右に卒塔婆が三本たっているように見える。もう一本あれば、心霊写真?

母は施設で結構おいしい食事と、やさしいスタッフに囲まれて、また頻繁に姿を現す娘(=私)にご機嫌に過ごしていたけれど、おととしに一度と去年の春に入院。この時は三週間ほどいて、8月の始めに退院して夏祭りにも参加できた。でもすぐ熱が出て入院になった。これが三度目。この頃、父がほとんど食事をとらなくなった。すると母も、病院で食事をほとんどとらず、寝てばかりいるようになった。父は食べたいのだけれど無理、という感じだったが、母は「食べない。」と決めたように、頑なに食事を手で拒否した。その感じから父が食べなくなったのを察知したのか、それともお気に入りの男性介護士にもう会えないとわかって、生きることをやめよう、と決意したのかと感じた。

夢のことがあったので、立川病院から桜町病院に移った時、早い段階で個室に入れてもらい、好きなクラシックを存分に聞いてもらった。私を認めると、うんうんと頷いて、わかってるよという合図を送ってくれた。今、母がいなくて寂しくない、というと嘘になるが、そのうち私もいくからと思うと、悲壮感はない。これから私は30年も生きれるかな。どちらにしても力一杯、思い残すことなく生きていこうと改めて覚悟している。

 

沢山の見送り

このブログを書き始めてから初めて、今年の一月は一回も書けなかった。何故か?母が1月6日に亡くなり、8日お通夜、9日お葬式を執り行い、少し無理かなと思いながら、14日から、大阪、豊橋へ行き、講座を受けたり、49日の法要の用意をしたり、市役所、弁護士の所に行き色々な書類をとり、不動産関係の用事をこなし、16日やっと帰ってきた。

疲れたな~、21日は気功クラスがあるから今週は少し休まなければと思いつつ、こちらでもすることが山ほどあり、市役所、年金事務所、郵便局に行き、書類の取り寄せ、提出を繰り返していた。と、20日に叔母から電話があった。なんと母の異母兄の奥様が亡くなったという知らせだった。最近はお会いしたことがなかったが、娘さんやお嫁さんが名古屋から母の告別式に駆けつけてくださっていた。なつかしさもあり行こうと決めた。名古屋にクラスが終わってから行き、7時からのお通夜に間に合い、次の日の告別式にも参列でき、22日、国立に帰ったら大雪が積もっていた。国立駅でタクシーを待つこと40分。名古屋から30分の所の会場を3時に出て、うちに着いたら9時半過ぎていた。途中、中央線が遅れたこともあり、長旅になった。

両親もよくいたリヴィング。

11月3日に父が亡くなり、12月28日は叔父が、1月6日に母が、1月20日に伯母が向こうの世界に逝ってしまった。何だか、この世界が面白くなくなって、皆で、「もう、行こ、行こ」と手に手を取り合って逝ってしまった様な感じを受ける。向こうの世界は賑やかで他のしそうだなと羨ましくもあるが、とりあえず私は正直疲れた。

気功師が疲れたと言ってはいけない、という意見もあるが、ちゃんと「医者の不養生」という言葉もある。親が亡くなった時くらい、大声で言いたい。「疲れた。」悲しさは?と言われそうだが、どちらの時も「もう、駄目だ。」と思った日に思い切り泣いた。後は何とか世間体を気にした二人のために、お葬式の体裁を整えるのに必死だった。介護に関わってから亡くなるまで、色々感じたこと、わかったこと少しずつ書いていきます。

介護に関して思ったこと

多分私は、自分の両親だったので当然のことと思い、世話をした。周りや親戚の方が「本当に大変ね。」と言って下さったことが多かったけれど、いつも「いえいえ、とても大変なのは直接お世話してくださる方達。私は両親がどこにいるべきか、の場所の管理が主ですから。」と答えていた。

少し認知の入った、娘の言うことを全く聞かない父と要介護5で六年になろうとしている母をうちで見なくてはいけなかったら、どうなっていただろう。どんなにヘルパーさんやケアマネさんが助けてくれても、夜はほとんど眠れないだろう。自分が真っ先に天国に(行けたら)いっていたかもしれない。

また、お嫁さんの立場で同じ状況だったら、余程労働として評価され、感謝されなければ割に合わない、と感じただろう。これだけ「家」的な感覚は崩壊し、立場上の「嫁」だけが生きているのは不思議といえば不思議なことだ。相続も嫁はかやの外。実家を兄弟が継いでいれば、実家にも平等な相続を主張するのははばかられるだろう。母はそうだった。(誤解されないように書いておくが、私はそれでよかったと思っている)

介護にも色々なケースがあるが、私は当然、両親のどちらかが介護が必要になれば、一方が主になり、私が手伝い、残された一人を私が看ればいいと思っていた。うちの両親は、年齢差が8歳~9歳なので、当然父を母と介護するものだと思っていた。そしてそれを何となく楽しみにも感じていた。

それなのに母が六年前に倒れ、その時90だった父に何ができるというのか。ようするに一度に二人の介護がスタートしてしまった。何度も父に、母と一緒の施設に入所することを勧めたが、頑として拒否され、泣く泣く遠い練馬まで行ったり、母に会わせるため国立まで送迎することになった。色々足りないことはあったけれど、最後まで好きにさせてあげようと努力したことは認めてほしいな。

うちの中に今お花が沢山ある。花の癒してくれる力が有難い。

お母様も、もうすぐそちらに逝こうとしています。現世で優しくしなかった分、今度はお父様がしっかり、お母様をお世話してください。そして二人で浄化して、天国で暮らして下さい、というのが私の希望です。こちらのことは心配無用。私は太りすぎに気をつけて元気にやります。子供達も意外としっかりやっています。みんなで可愛がった甲斐がありました。有難うございました。

父のことーこれで最後

よく考えたら、父が寝付いた時間は短かかった。二月までは一人で杖をつきながら歩いて、普通の食事をとっていた。四月に肛門の手術をしてからあやしくなり、5月の母の日に入院してから、とうとう施設に帰れなかった。

私が一番大変だったのは、病院に入院して退院できれば問題ないのだけれど、父のように状態が悪くても、もうその病院で有効な手立てがない場合、どこか他の病院か施設か自宅に移らなければいけないことだ。

医師や相談員の方と何度も何度も面接して、行き先を決める。容態が変わることもあるので、看護師さん達とも連絡をとっていかなければならない。施設の方もいつ帰ってくるのかと心配して下さっているので、報告しなければならない。今回父と同時に母も8月からおかしくなり入院になったので、一番暑かった7月、そして雨の多かった8月と父の転院、母の入退院に付き合った。

お花を色々な方から沢山頂ました。感謝です。

そして病院に入っても、転科と言って部屋が変わったりする。また、最期になると、個室になるので、また部屋が変わる。これは看護師さんが全部してくれるので、手間はかからなかったが、どうしても個室は差額ベッド代が高いので時期をよく考えなければならない。

後は、下着と靴下の交換のため、持って帰って洗濯して持っていく。退去した施設からの引越し。これがばかにならない。ソファー、車椅子、サイドボード、衣類、布団、他細々とした物。仕分けして業者を呼んだり、リサイクルショップに持って行ったり、施設でひきとってもらったり。

帰ってからも母の膨大な衣類の仕分け、整理。父の衣類も同じように。これらをしたのが全て夏の暑い時。よくもったな、と思ったけれど、昨日お嫁さんから衝撃的な発言が。。。「お母さん、夏が一番太っていましたね。」!!!

父よ、母よ、丈夫な体に生んでくれて有難う。そして気功師になっていて良かったです。それにしても、患者本人にも家族にも大変な負担がかかる「移動」なんとかならないかしら。。。