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時間の使い方

私だけではなく、よく聞く話だが、最近時間が過ぎるのがとても早い。高齢化が進み、自分も含めて周りに高齢者が多いせいかもしれないけれど(笑)以前は、施設にいる母を週2.3回、車で一時間半くらいの父を月1.2回訪れるだけだったので忙しかったけれど、まだ時間に余裕があった。しかし父の独居を放っておけなくなって、こちらに来てもらってからとても忙しくなった。施設から病院通いが始まり、今も入院中。

気功の仕事も続けたいし、ピアノも手放せない。そろそろ断舎利とかもやり始めなければ、と気がせいている。かてて加えて、「後のことは考えない。」と私に宣言した父の言葉通り、色々なことがぐちゃぐちゃで息子達に迷惑かけないよう、せめてすっきりしておこうと思うと、膨大な事柄に取り掛かなければならない。

最悪のパターンは、ストレスが溜まりすぎて、欝っぽくなり何もできなくなること。私が動けなくなると取りあえず父が困る。それでまず、「自分の性格として、忙しい方が暇よりいい。」といつも自分に言い聞かせ、次に保身術として、昼間でもどうしても寝たい時は少しでも睡眠を優先し、また積極的に遊ぶ時間を作るようにしている。先週も高校のクラス会にでかけ、今週も河口湖まで行ってきた。力一杯楽しむので、充実感がある。

一竹着物美術館の前で。美人の顔がはっきりしなくて少し残念?

一竹着物美術館の前で。美人の顔がはっきりしなくて少し残念?

若い時より物事がはかどらないので、一計を案じた。一日前の夜に明日すべきことをメモする。夜になるとできた事を消していく。どうしてもやり残したことが出てくる。それを見ながらまた次の日の計画をたてる。例えば、銀行に行って施設費の支払い、母の所で弾くピアノの練習、着物片付け、贈答品のお礼の手紙、父の病院で相談員の方と打ち合わせ、アメリカの姉に電話、気功クラスの変更のお願い、という風に。週の終わり頃になると、ずっとりやり残したことがはっきりしてくる。そこで、それを朝一番の優先順位にもってくる。こうすると不思議に、一週間の中では大体片付いているし、自分が避けていることもわかる。(大抵は片付け関係)

この中には、家事のルーティーンと気功の仕事のことは入っていない。家事をするのは自然の流れだし、自分の仕事は常に優先順位を一番にしているからだ。もしメモしないと仕事を忘れてしまうようだと、もうおしまいね、と思っている。

父とのこと

尿が出ないまま入院している父に、できたら隔日に会いにいくようにしている。時々オオボケする。この前は私をみた途端驚いて、「あんた、なんでここがわかったの?」と言う。私もしょうがないので合わせて「病院が教えてくれたのよ。」と言うと、「ほ~、すごい病院だな。」とまた驚いている。「あんた、どこから来たの?」と聞くので、「東京」と答え、「お父様、どこにいるの?」と聞いてみたら、「四国」と言うので、やっぱりと思って「四国のどこ?」と聞くと「高松、この前船から降りた。」と言う。造船会社の設計技師だったので、その時が人生の花だったんだなと少ししんみりした。

暫くして、「もう帰るわ。」と言うと「どうやって帰るの?」「自転車」と言って、父が再び驚いた顔を見て、しまったと思った。ここは「飛行機」というべきだった。後日アメリカ在住の姉にこの話をして、「飛行機、といっていく度に10万円貰おうかな。」と言ったら「そんなことしたら、(母の)施設代や(父の)入院代が払えなくなって困るのはあなたじゃない。」と大笑いしていた。その通り、です。

それから2,3日して行ったら真面目な顔をして、「ここは立川だな?」と聞くので「そうよ。」と言うと「あんたはどこに住んでる?」ともう何回も聞いたことを言うので、私も「国立、ここのすぐ近くよ。」と多分20回は言った返答をした。するとふ~んと言ったきり黙って目をつぶった。

6月20の富士山。河口湖にて。この時期滅多にみられない富士山の雄姿でした。

6月20の富士山。河口湖にて。この時期滅多にみられない富士山の雄姿でした。

なんだか自分は高松にいる、と思っていた時の方がにこにこしていて幸せそうだった。お医者さんは「病院にいると認知が出るので、頭をはっきりする薬も出してます。」とおっしゃっていたけれど、今は夢の中にいる方が幸せじゃないのかな、と複雑な気持ちになった。一生懸命治療していてくれる病院にそんなことはとてもいえないけれど。

父が長引いているのは、尿の出ない原因がわからないから。原因がわからないと治療法もわからないのは、西洋医学の弱点でもある。気功は邪気のありかはわかってもどういう病気か具体的にいえないのが弱点ではあるが、邪気を祓うことによってヒーリングはできる。組み合わせればかなりのことができるのに、といつも思う。とにかく父に早く良くなってもらって、また母に会わせに施設に連れていきたい。

 

どんな時でも元気になる

「どんな時でも元気になる」という題にしたのは、近年になく五月は相当私にとって厳しかったからだ。親しかった方お二人があっという間に亡くなられた。一人は親戚同然のお付き合いをしていた、仙川にある病院の院長までなさった女医さん。もう一人の方はクラスにも顔を出してくれていた方。家族の方とも顔見知りだった。お二人とも癌の再発が原因だった。他にも叔父危篤の知らせが入り豊橋に走ったり、父が「母の日」の朝、施設から救急車で病院に運ばれて、まだ退院できない長い入院生活が始まった。他にも湿疹がなかなか治らなくて困っている方、介護で疲労困憊になりダウンした方、それから熱中症で意識不明までいった家族とか、なんだか病気のオンパレードだった。お葬式に行ったり弔問したり、遠隔診断したりヒーリングをうちでしている間に五月が終わってしまった。

こう書くと何だか不幸ばかり起こっているようだけれど、一つ一つを気持ちをこめて接したのでかえって疲労は残らなかった。あの世に送った方にも女医さんには「向こうでも是非スピリチュアル・ドクターとして活躍して下さい。」と話しかけ、もう一人のSさんにも「お仕事も子育ても最後まで良く頑張られましたね。ゆっくり休んでまたご家族見守ってね。」と話しかけた。魂は永遠と信じてなければ、かなり落ち込んだと思う。本当は最後まで気功師として関わりたかったけれど、女医さんは去年の法事にお会いして今年になってもお仕事なさっていたし、Sさんは最後はご家族と過ごされていたので邪魔してはいけないと思って連絡も遠慮した。

一緒に見た桜、すごく綺麗だったね。あなたのこと、忘れないよ。

一緒に見た桜、すごく綺麗だったね。あなたのこと、忘れないよ。

でも不思議なことに、Sさんが入院した同じ病院の外科の同じ階に父が一度目の入院をし、もう退院したあとだったけれど、行く度に家で療養なさっているSさんを思った。驚いたのは父が二度目の入院を泌尿器科でしたのに、又外科の同じ階に入院し、一週間そこにいた。そして他の階に20日に移ったのだが、彼女は19日に亡くなられたと連絡を頂いた。私は彼女が入院している時は度々お見舞いしたので、余計行く度にああ、父がいたこの部屋に彼女がいたな、とかあの頃は本当に桜が綺麗だったなと思いをはせていた。

一緒に弔問に行った方は、なんと19日にSさんを友達と見かけたと言った。ああ、あんなにお元気になられたんだと一瞬思ったという。

お仕事が生きがいで80歳すぎても現役でいらした、どちらかと言うと男性っぽくて、謙虚で可愛いらしいところもあったA先生、強い心を持ちながら、優しさとユーモアが魅力だったSさん、50代半ばでまだ中学生のお子さんのことも心残りでしょうけれど、この世の苦労は忘れて、(誰でも反省の日々を過ごすと聞いてますが)あちらの世界でも輝いてご活躍ください。いずれ私も行きます。精一杯のことをして、お二人に拍手で迎えられるように頑張って生き抜きます。                                                                            合掌

 

 

 

危ない二つの経験

今日は、ひやっとした経験を二つ書いておきます。一つは、道路上のことです。ある日、道を歩いていると、救急車の音が歩いてきた方から聞こえてきたので、あっと思って足を止めました。四辻を通りすぎたところでした。すると、通り過ぎた四辻の右の道路からも救急車の音が聞こえてきたのです。えっ、と思って見ると丁度同じくらいの距離から来るのです。大きな道路ではありませんでしたが、信号はありました。でも救急車って信号関係ないわね、と思っている間に二台がみるみる接近してきたので、あっ、お互いに大きな音を出しているので聞こえなかったら衝突?と思って道の真ん中に出て手を大きく振り、90度の角度からも救急車が来ていることを伝えました。と、四つ角で救急車が止まったのです。お互いに分かっていたかもしれません。でも用心にこしたことはない、と思っての行動でした。交差点で二台の救急車が出会う確率は低いと思いますが、なきにしはあらずなんだ、と学びました。結構怖い経験でした。

菜の花を見るとほっとします。もうそろそろ、おしまいですが。

菜の花を見るとほっとします。もうそろそろ、おしまいですが。

もう一つは熱中症です。家族と父の施設に行きました。彼は風邪気味で昼間寝ていたのですが、その部屋はすごく暑く、私は5分もいられませんでした。夕方、父を部屋から廊下へ連れ出した時、彼は「気持ち悪い。」と言って廊下の椅子に座りました。嫌な予感がして、偶然カバンの中にあった水を飲ませました。飲んだ直ぐ後、目が虚ろになり焦点が定まらなくなり、驚いて名前を呼んでも、眼を開けたままぐったりしてしまいました。大声で「誰かいませんか?」と声を張り上げると、家族を訪問していた男の方が出てきて、「職員を呼んできます。」と言ってくれましたがエレベーターがなかなか来ません。部屋に戻り呼び出しベルを押し続け、事態を説明して、廊下に戻った直後、意識を取り戻しました。幸い看護師さんが駆けつけてくれて、首の後ろを冷やしたりポカリを大量に飲んで、大事にはいたりませんでしたが、後で考えると、水を飲んで胃に到達した頃正気にかえったのではないかと思い、怖くなりました。

明らかに、既に部屋の中で熱中症になっていました。私が「暑くない?」と聞いた時、「全然」と言ってましたが、風邪で寒気を感じている時には暑い感覚はないでしょう。それに薬を飲んでいたので、後から聞いたら寝ている間、汗をかいて二度ほど着替えたようです。体の中の水分を失い、温度も湿度も高いところで寝ていたので、熱中症になる条件は揃っていました。日本は5月の上旬で、もう熱中症を心配しなければいけない国になってしまったのです。夫々が気をつけるしかない、と重く受け止めました。

人間の中の天使と悪魔(2)

題から、私が父の中の悪魔と天使について書きたかったのだろう、と普通は思われるだろう。でも違う。実は自分の中の悪魔と天使についてである。社会福祉の職についている方が「男の人で、おりあらば女性の体に触る方は年配の方で沢山とは言わないけれど、結構いらっしゃいますよ。」と言っているのを聞いて驚いたことがある。「どうするんですか?」と聞いたら「あら~、駄目ですよ~。」と言ってやんわり止めさせる、とおっしゃっていた。ふ~ん、私は若かったんだなとその時思った。とにかく、育ててくれて成人した、ある程度の教育も身につけさせてもらった、おいしいものを沢山食べた等々、考えると感謝こそすれ、憎む理由はあまりない。

家族というのは意外にやっかいで、「親」だから「子供」だからという理由で他人とは全く違う関係になってしまう。精神世界の勉強で学んだように、「一人の人間」と捉えれば「会社でかなりのストレスを感じていた少しスケベな親父」で終わってしまう。でも戦争も乗り越え、とにかく真面目に家族を養ったことは忘れてはいけない。子供から見ればそれが当然と思ってしまうが、父親、夫、世帯主という責任を背負って生きてきたことに間違いはない。では私の憎しみはなんだったのか?

母から父の愚痴を聞かされ続けたのは大きいと思う。でも父を憎んだ心は、自分の欠点を父の中に見たからではないのだろか?もしくは自分のストレスや暗い部分が父の中にある同じような部分に過剰に反応したのかもしれない。反応したのは私の悪魔の部分だった。人間なら誰でも心の中に悪魔と天使がいて、ただ、その割合が人によって違い、生きるということは天使の部分を広げる作業だという説に今の私は納得している。

さくら、さくら、今咲き誇る、でした。

さくら、さくら、今咲き誇る、でした。

昨日、父の手術で病院にいた。そばにいると安心するようで無事手術も終わった。今は何かしても「有難う。あんた時間使わせて悪いな。」と穏やかに言ってくれる。ここまで来るのに随分な時間、かかったね。母が倒れた5年前、父のせいだとその時も憎んだが、それも自分が母に十分なことをしてあげられなかった、という思いから出ているのだろうと思う。勿論これから父も、自分について反省する時間はたっぷりあるだろう。でもそれは私には関係ないこと。人は自分の中の悪魔と戦えるのは自分でしかない、ということを私はやっとわかった。

人間の中の天使と悪魔(1)

前回、父のことを露骨に書き過ぎてしまったと反省している。「覆水盆に帰らず」なので、今回は今まで父に憤ったことと感謝したことも書いておこうと思う。母は80近くなって驚くほど腰が曲がり、歩行困難になった。そんな母を父は疎んじた。どこかに行く時も、自分の奥さんだと思われるのが嫌だったようで一緒に歩かず、なるべく離れて歩き、電車も違う車両に乗った。なので、母は段々外出をあきらめるようになった。二人しかいない家の中で、口が達者な母にいらだつと時々手をあげた。そんな話を母から聞くと、私は(今から考えると)こともあろうか、「やられたら、何でもいいから近くにある物を使って反撃しなさい。お父様も痛いということがどういうことか、わかった方がいい。」と言った。あやうく母か父を人殺しにするところだった。

そんな父にきれて、何を言ったか忘れたが、多分もの凄くきついことを言ったのだろう。何か言って父は黙り込んだ。そうしたら、後から母から電話がかかってきて、私に話しがあると言う。何かと思って会ったら、私が言ったことを父が母に言って悲しんで涙ぐんだという。何と「お父様が可哀相だから」父に謝れ、という。確かアメリカから来た姉と甥夫婦のために大奮闘して、父母も一緒に旅行をした最後の日にお礼の一言もなく、これ以上理不尽なことはないことを言われ、それに対して反発した言葉だったと思う。金銭的にもほとんどうちで負担したのが、父の沽券にかかわったのだろうか?親孝行もかねてしたつもりが「謝れ」という結果になり、また逆上しそうになったが、それよりもその時ほど「夫婦関係は子供でもわからん」と思ったことはない。

お寺の桜

お寺の桜

そんなあまり感心できない親子関係だったが、父は私に子供ができると、正確には長男が三ヶ月ぐらいしてから急に可愛くなったのか、それこそ「目に入れても痛くない」という言葉がぴったり当てはまるくらい可愛がった。残念ながら転勤族で、長男が一才過ぎたら遠く離れてしまったけれど、男の子三人、皆可愛がってくれた。この愛を妻と子供に少し向けることができなかったのかと思ったこともある程、私は別人を見るような思いだった。私達は勉強でわからないことがあって聞いても「なんで、こんなことがわからんのか」と先ず怒られ、しょっ中「ばか」と言われて育った。ところが、長男が二浪が決まった時、わざわざ電話してきて「男はいずれ社会に出る。人生の中で二年余計に勉強するのは、有意義だ。」と言ってかばった。私は心の中で「そんなこと言うなら塾代出してよ。」と思ったけれど、気が弱かったので(?)言えなかった。

再び、父とのこと

父は頭のいい人だったが、(あくまで学問的な意味で)母から言わせると「とても利己主義」な人で、小さい頃からそう何度も聞いてきたので、母が好きだった私は父が好きではなかった。特に思春期の中学生、高校生は多分憎んでさえいた。大学生になると胸やお尻に触りたがり、憎しみを通り越して嫌悪になった。外から見ると優秀な平和な裕福な家族で、非の一点打ち所がなかっただろうと思う。母は一生懸命それを演出していた。私はある程度協力したが、姉はあほらしくなったのかアメリカに留学に行き、それきり帰ってこなかった。私も結婚して家を出た。

 

さくら、さくら、今咲き誇る♪

さくら、さくら、今咲き誇る♪

私が生まれた家族の物語は、これで終わるはずだった。しかし気功師を名乗るようになって、必要に迫られて精神世界を勉強するようになってから、終わった、と思っていた家族関係の大きな見直しを迫られた。「家族は学校であり、親はOB、OGである。」「家族は自分の映し出しであり、自身の向上のためにそこから学ぶためにある。」「憎いというのは、何かを期待して、依存している証拠である。自立していたら、親を一人の人間として見ることができ、理解できる。」これらの言葉は親と言えば「親孝行」か「親不孝」しか思い浮かばなかった私にとって、斬新で、まさに目から鱗が落ちる思いであった。

結論から言ってしまえば、つい最近家から車で5分、自転車でも10分足らずの距離の施設に入ってもらった95歳の父と、いつも使う駅から見えるくらいの距離の施設にいる、87歳の母の世話をしていると、(本当に世話をしているのは施設の方達だけれど)ああ、これは神様が私に家族関係の修復のために用意してくれた時間なんだとしみじみ思う。特に疎ましいとさえ思っていた父を車椅子に乗せて、病院の中をあちこちして、余分な検査は受けないように奮闘していると、時々保護すべきベビーカーに乗せた子供を押している様な、不思議な気持ちになる。

昨日帰りにママ友に会い、そんな話をすると、「お世話になった恩返しができて良かったわね。」とさらりと言われた。そうなんだ、これは家族関係の修復というより、自分が後悔しないための私のための時間なんだ、と気づかされた。昨日は曇り空だったけれど、桜は満開で美しかった。病院でついでにお見舞いに行った方の部屋から見た桜は、息を呑むほど美しく、壮麗という言葉がぴったりで、吉野の桜もかくやと思われた。(肝心なところで写真を撮りそこなった。ゴメンナサイ)振り返って、ぎっしりとドラマの詰まった一日だった。

 

創造はやさしく、想像は難しい?

最近、題に書いたことをよく思う。「壁」を創造するのは、権力さえあれば可能かもしれない。でも、そのように差別された国や、罪なき人々のことを正しく想像することは難しい。多分人は、真実をみつめようと努力することより、自分の都合のいいように物事を創造することの方が容易なのだろう。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

それは学校でよくやった「伝言ゲーム」でも明らかだ。たった10人程度の人数で、始めの人が言ったことが最後の人に正確に伝わらない。意図的でなくても、人のcommunicationはこの様に不確かなのだ。どこかに、自分の創造が入ってしまう。時々太極拳とかヨガで首や膝を痛めた肩がいらっしゃることがある。健康になるためのものなのに不思議に思っていたけれど、元々修行的なものが変化して健康体操的なものになったのだろう。本家は中国やインドなのだから、日本に入ってきた時点で大分変わってしまっている可能性がある。人に教えようという方は歴史や、本来の姿を知っておいた方がいい。これは気功を教えている自分も注意しなければいけないことである。

先日気功クラスで迂闊なことに、とても大事なことを伝えていなかったことに気がついた。私の気功は修験道者系で、「気」は、大峯山の麓の神社から頂いてきた。役小角が気功をしていたかどうか知らないが、少なくとも気功の基を実践していたと思う。それを引き継ぎながら、幾つかの手法を自分で創造した。クラスでも、これは習った気功法、これは私が創造した手法とはっきり分けて教えているが、これは自分で「創造」したというよりも上から教えて頂いたと感じている。

少し話しがそれてしまったが、自分が経験していないことを正しく想像することは、本当に難しい。震災に理不尽に被災された方達、例えば原発の恐ろしさをわかっていて、反対していた方達もいるだろう。やっぱりね、言わんこっちゃない、と思いながら亡くなった方もいらっしゃるだろう。福島からの転校生にイジメの記事を見る度に、人の想像力のなさに絶望的な気分になる。人はここまで、正しい想像力を働かすことができないということに、自戒をこめて、自覚しなければいけないと思う。

年をとるということー父の話(2)

父も母もとても頑固だった。私が社会人になったら、それは余計ひどくなった。外資系の損保会社に就職し、世の中のお金の動きに少し敏感になり、そんな時バブルを迎えた。「今が売り時。」私は父が所有する不動産についてかなり頑張った。すると父は激怒した。親戚中に悪口を言い、「あの子にだけは、あのうちはやらん。」と宣言した。父の設計した立派なうちだったが、結局50年以上誰も住まず、家が哀れだった。そこに法事の後、久し振りなので、父がさぞ喜ぶだろうと思って子供達と連れて行った。すると開口一番「なんでこんな所に来た?帰ろう、帰ろう。」だった。

途中から、父母はお嬢ちゃん、お坊ちゃまの組み合わせだから、私の基準で何か言ってもしょうがない、と思うようになった。私が学んでいるスピリチュアリズムでも、「親だと思うから腹が立つ。それは一種の依存です。」と言われ、余程困ること以外は自分とは関わりのないこと、と思うようにした。そうこうするうちに親子の立場が逆転した。父の肛門が緩くなり、漏れてもほっておくので、匂いに敏感な私はすぐわかり父の大便と格闘することも何度か経験した。

白い百合は祖父が好きな花だった。

白い百合は祖父が好きな花だった。

赤ちゃんと一緒でお尻を拭いている最中に刺激されて、溜まっていた便がどんどん出てくる。トレペをかなり使ってから、気がついてトイレに座ってもらった。その間、自分でも拭こうとするので惨状はひどくなる。ある時、肛門から7cm程垂れていたものを見つけた。取ろうとしてもなかなかとれない。あれっ、と思ったら腸だった。子供で経験があったので、押し戻したら2cm程残ったけれど入っていった。(お医者さんに相談して手術決定)悪臭と戦いながら、いつも思うことは「男の子三人育ててよかった。」ということだ。扱いなれていたので、抵抗がないことはないが、何を見ても(笑)卒倒することはない。

姉がアメリカに行ってしまったから一人娘みたいなもので、私の両親だけまだ残っている。傍から見たら損な役回りかもしれない。まだ、介護した人が多く遺産を頂けるという法律もない。でもどこかで、近くで親の世話をできるのは私が幸せな証拠と思っている。助けてくれる方が沢山いるので、燃え尽きる心配もない。口が達者な母は、脳の言語野がやられたので不満も言わない。(浪人している時は母の言葉でノイローゼになりそうになった)今、施設でにこにこしている母を見ると本当に嬉しくなる。

父に対しては複雑だったけれど、最近あることに気がついた。人に対して、親切にするとか思いやりをもつとかはほとんどない父で冷たい人だなと感じていたけれど、自分に優しくしてくれなくても文句は言わないし、自分の状態に不満も口にしない。もう少しこうしてくれればというのもあまりない。母とはいつも喧嘩していたけれど。。。やさしいヘルパーさんやケアマネさんの支えも大きいのだろうけれど、その点はとても助かる。お坊ちゃまなので、人に大便の世話であろうと何であろうと、何かしてもらうのに、たいして遠慮がないのも私にとってはやりやすい。これをいちいち、恥ずかしがったり、嘆いたりされたら却ってやってられないだろう。

そして、あまり抵抗なく父に関わっていられるのは、近い将来の自分の姿をそこに見ているからだと思う。ああ、年をとったら、とてつもなく頑固になって、色々なこと、ついには下のことまでできなくなって、朝も昼もわからなくなり、食事を作るのはおろか冷蔵庫から食べ物を取り出すのもできなくなるんだ、と学ばせてもらっている。父以外の全員一致の意見で、今月近くの素敵な施設に入ることになった。体験の時は喜んで帰るのを嫌がったくらいなのに、おとつい施設長と行ったら全く忘れていて、「この家を離れるわけにはいかん。ほっといてくれ。」と威張るので、「ほっておいたら、何も食べないから干物になるよ。」と言ってきた。

 

年をとるということー父の話

よく母の話はしてきたが、今日は父のことを書こうと思う。所謂、勉強の頭はすごく良くて、エリートコースを歩んできた。母が倒れて施設に入っても、人付き合いが嫌いなのと家フェチなところがあり、90を過ぎても一人で暮らし、とうとう95になった。すごく良いヘルパーさんやケアマネさんに恵まれて、又ワタミの宅配を利用していて必ず声をかけてくれるので、私は月二回ほど顔を出すだけで何とかまわっていた。

部屋から見る冬の庭

部屋から見る冬の庭

ところが、去年あたりから少しおかしくなってきた。「来い。話がある。」と言うので行くと「あんた、何しにきた?」と言う。決して近い距離ではないので、がっくりくる。今年になるともっとひどくなり、昼に行っても雨戸は閉めっ放しで、大声で起こすと「なんで明け方に来た?」と言われる。

法事の時の引き物を始め、色々なものを豊橋の会館に頼む時、「費用は父が出すので、父の名で。」と言ったのだが「いえ、頼んだ方のお名前で。」と言われ自分の名前を書いたのだが、これが騒動の元になった。会館使用料や引き物やお食事の合計された請求書が父に届いた日から、(その日までに既に支払って、父にも報告をしていたのだが)20万円以上の買い物を私がして、その請求書が自分にきたと思いこんだ。毎日電話が二回ずつ入り、「あんたな~、二月一日付けで請求書が来ているけど」と始まる。いちから説明して、「ほ~、そうか。」で一度きる。そして寝る。起きると又その請求書が目に入る。寝る前のことはきれいに忘れている。そこで、腹が立ってすぐに電話する。宅電がかからなければ、携帯にする。「あんたな~、二月一日付けの」が始まる。

五日間続いて、もともとラテン気質のところがある私はきれた。「ちょっと、わかったなら、今すぐその請求書捨てて!」と怒鳴った。返す刀で、請求書発行元の会館にも電話して、父名義の領収書をすぐ送ってもらうよう頼んだ。私の大声に恐れをなしたのか、その日から電話はかかってこなくなった。送られてきた自分宛の領収書で安心したのだろう、顔を合わせてもその話はなくなった。(to be continued)